二人が何も知らなかった頃、
 世界は優しかった。

 二人が何も知らなかった頃、
 全ては美しかった。

 愛という言葉の意味など分からず、
 影を潜めている憎しみや苦しみにも無縁で、
 二人はただ、その透きとおった心で、
 あなたが好きだと伝え合った。
 強い意志を宿した翡翠色の視線と、優しい光を帯びた淡黄色の視線が柔らかく交差して、
 このまま時間は緩やかに流れ、二人の未来を温かく包んでくれるのだろうと、
 心のどこかで、それは本当は長くは続かないと分かっていたけれど、二人は、
 願っていた。





 色とりどりの花びらが、風に煽られて舞い上がる。
 花畑にある大きな木の木陰に座っている二人は、寄り添って、他愛もない話をしていた。

 彼女は、彼の優しさが好きだった。
 その繊細さゆえに、機敏に相手の心を読み取る。
 何も言わなくても、彼は彼女のことをよく分かってくれていた。
 彼女が嬉しいときは共に喜び、悲しいときは共に悲しんでくれるほどに。

 彼は、彼女の強さが好きだった。
 一歩を踏み出せない彼を、彼女は手を取って前に歩ませてくれる。
 行こう、と言う。先へ進もう、と。
 その強さの中に隠されている密かな臆病さも、彼にはただ愛しかった。

「ねえ、カヤナ」
「うん?」
「君はボクのことを好きって言ったよね」
「あ、ああ……」

 彼が顔をのぞき込むと、彼女は少し驚いたように目を丸くして、彼の瞳を見つめ返した。

「それがどうした」
「口づけても、いいかな」

 いきなりだとまずいし、やはり恥ずかしいから、彼は先にそう宣言したのだ。しかし、彼女は「接吻だと!?」とみるみるうちに顔を赤くして、ぷるぷると必死にかぶりを振った。

「どうしてだ、夫婦でもあるまいし」
「夫婦って……ボクたち、恋人同士なんでしょう? 口づけくらい、夫婦でなくても、好き合ってるならするんだよ」
「し、しかし」
「ボクはしたいな」

 むろん、言い出した彼にも照れはあるのだ。しかし、それ以上に彼女と両思いになれたのが嬉しくて、大好きな人の身体に触れたくてたまらなかった。昔からずっと一緒にいたが、手をつないだり抱き合ったりはしても、それは子どもの触れ合いだった。

「だめ?」

 口をとがらせ、首をかしげて問う。彼女がこういう仕草に弱いことを知ってのこと。
 彼女は狼狽して、しばらく目を右往左往させていたが、別にかまわん……と消え入りそうな声で承諾した。

「少しだけだからな」

 なぜそんな抵抗をするのかと、おかしくなって、彼は少し笑った。彼女は、別に嫌ではないのだ。単に慣れていなくて、そういった行為が未知すぎて、戸惑っているだけなのだ。
 じゃあ、と、彼はそっと顔を近づけた。彼女はうろたえて身を引っ込めたが、彼が悲しそうな顔をすると、慌てたらしく身体をこわばらせた。カチカチになってしまった彼女をますます面白く、しかし可愛らしく思いながら、彼は、瞼を閉じ、彼女の唇に微かに触れた。
 口づけは、ほんの一瞬だった。
 顔を離すと、困惑気味の表情があったが、そのうち彼女は頬を染め、ふんわりと微笑んだ。
 それは、本当に幸福な微笑みだった。彼が生まれて初めて目にした、人間が真の安堵の中にいるときの表情だった。
 彼もまた、心が温かな湯で満たされていくような、じんわりとした幸福感を覚えて、彼女に優しく微笑みかけた。





 二人が何も知らなかった頃、
 世界は優しかった。

 二人が何も知らなかった頃、
 全ては美しかった。

 二人はまだ何も知らなかったから、
 愛という透明な感情のもとで、ただ、美しく想い合っていた。